
学生さん達も学校が冬休みに入りましたね。いよいよ年末が近付いて参りましたが、皆様は大掃除って毎年されますか?
さて、今回は精神疾患についての日本での世間一般の考えについて語ってみたいと思います。これは、あくまでも私が感じている事なので、実際にどうなのか、と言う事とはまた違ってくるかもしれません。ご了承下さいませ。

日本における精神疾患に対する処置は他の先進国に比べ、かなり遅れています。それは何故か?
まず、欧米諸国では、精神疾患を心身両面の疾患と捉えて来たのに対し日本では身体的の物と捉えられてきたので、病院へ行ったところで、「ただ、休養が必要」とだけ言われることも少なくなかったと聞いています。それ以前に遡ると精神疾患者は私宅療養が一般的だった様です。要するに私宅にての監禁状態だったと考えられるという事でしょう。1995年に、精神障害福祉法が改正された事により初めて、精神障害福祉手帳の取得や医療費の自立支援制度も認められ、社会復帰の為の訓練所や福祉ホームの充実化が認められました。
要するに精神障害について国をあげて乗り出したのは、つい最近と言う事です。それまでは、精神疾患が日本で周知されていなかった事もあり、日本は各諸国からの抗うつ剤等の市場価値が無いと考えられていた様です。いわゆる薬すら無かった。という事ですね。
昨今に至っては有名人等がうつ病や、精神疾患をカミングアウトするようになりましたが、それでも、過去の精神疾患者は私宅監禁するという習慣が尾を引いて、まだまだ一般的には差別や偏見が無くならないのです。もはやそれが家庭内の秘事として、文化となり人々の固定概念となってしまっているのです。実際、私も両親からは「誰にも言うな!」といわれています。2006年に自殺対策基本法が制定され、社会問題として取り上げられる様になった今も尚、偏見は無くなりません。人々の固定概念を無くし、文化を変えると言うのは年月しかないのでしょうか?

真の「神道の教え」と単なる洗脳
結論から申し上げますと私は精神疾患者本人はどんどん挙手していくべきだと思っております。まあ、だからこそこのブログを立ち上げ、自らの過去も全て明らかにしているのですが。。。しかし、中には自分の精神障害を隠したい疾患持ち者が多いのも現実です。何故なら前項で記述した文化と戦後の急ぎすぎた日本教育が「自分を甘やかしているだけ」、「勝手にうつ病の振りをして楽しようとしているだけ」という世間の目を造り上げているからです。それにより、精神疾患者自身さえ、洗脳され「自分が悪い」、「自分が甘い」と自分を責め、どんどん悪化するのです。会社で働いている人は職場の上席、同僚への負担を気にして、無理に仕事をするのです。実際、診断が下ったにも関わらずそれを疑問視したり、疾患持ち者の休暇が増えたことに対する不満を爆発させる同僚がいます。前者は厳しい神道の道を更に厳しくし、後者は真の神道の教えである「愛」を置き去りにしてしっまったのでしょう。
しかし、精神疾患者自身が世間の目を気にし、概念をねじ曲げられてしまうと、疾患自体もどんどん複雑化し、他の病気の併発等で医療が追い付かなくなっていきます。精神障害は決して隠さなければならない恥ずかしい事ではないのです。それどころか、精神疾患を持っているからこそ、オープンにし、世間の概念を変えていく必要がある。そうする事により、自分で自分の道を更に厳しくしてしまった人たちも、少なくとも今よりは生きやすい環境になる。私はそう確信しています。

「受け入れる」とは?
精神疾患者は周りの反応に敏感です。周りの感情を受け取りやすいです。しかし、言い換えれば、「周りの感情を読み取ることが出来る」というのはひとつの才能でもあるのです。ただ、その才能に、自分で課した厳しい一般常識が重なり、責任感を伴う様になり、それに押し潰されてしまうのです。「病を受け入れる事」と良く耳にしますが、その「受け入れる」というのはどういった事なのかお考えになったことはありますか?
私はこう思います。「受け入れる」というのは、まずは、自分の問題の根本的な知識を得る事。その時に「なぜ自分がこんなことに?」等と言う考えはもう捨てましょう。キリがありません。単なる堂々めぐりです。次に、どうしたら自分は生きやすくなるのか?自分らしさとは何か?を考えてみましょう。そうすることにより、自分と言う人間が客観的に見えてくるようになります。そして、今後どうするかの見通しをたてる。ただ、これは最後の最後です。未来の事はわかりませんから。ても、その見通しを立てることによって、覚悟が決まります。
簡単に「受け入れる」といっても私は上述した事ができていなければ、本当に受け入れた事にはならないと思っています。
そして、その様に本当に受け入れてからその上で、自分の生きやすい環境作りを模索し始める。世間の目、残っている慣習、敏感に感じ取ってしまうでしょう。しかし、覚悟さえできていれば、それほど強い物はないのです。何故なら私達は、感じ取る才能を持った上で更に覚悟を決めて挑むのですから。
それこそが、神道の教え 「試練と復活」なのだと、確信します。
いかがですか?皆様もご自身の生きやすい環境を造るための準備を始めて見ませんか?そこに待っているのはそれこそ「気楽に生きる」事なのだと私は強い希望を抱いております。
Aya