
今回のタイトルに「不安な自分」を付け加えた理由。それは、現在執筆しているこの『過去』を思い起こし、文章にすることによって私自身が、また負のサイクルに戻るのかも知れないと言う不安がまだ拭い切れていないからです。
今の私が自分のして来たことや感じて来たことを思い出しても、本当に大丈夫なのかどうなのかも悩みました。
でも、今なのです。今、これをしなければ、私は前へは進めない気がするのです。もう走り出したのです。
その先に何が待っていようとも、受け入れる覚悟をしなければなりません。
今回も前回の引き継ぎを皆様にお伝えして参ります。

離婚後に待っていた更なる闇
離婚後、私は実家へは戻る事は許されませんでしたので、一人で部屋を探し、一人暮らしを始めたのですが、そこに待っていたのは、『お金がない』という現実でした。
なんとしても働かなければなりませんでした。両親からの援助は一切なかったので、私はまた日本の組織社会に戻らざるを得ませんでした。
しかし、以前にも増しての、人からの妬み、やっかみ、そしてそれが虐めとなり私を攻撃してきました。人間関係の摩擦により、転職に注ぐ転職を繰り返しながらもなんとか生きてはいました。
私は段々、両親に不信を抱き始めました。
もともと、嫌がる私を無理矢理に結婚させ、離婚すると、放ったらかし。しかも、母においては、「私が前面にサポートする」とまで言っていたのが、あっという間に掌返し。
「これって、、私は全然悪くないんじゃないの??」
理解できませんでした。何故両親は私に謝らないのか。何故彼らは何のヘルプもしてくれないのか。その想いが次第にエスカレートしていったのです。

感情の爆発
ある日私は人目を避けるように実家へ戻り、私の意見を伝えました。が、彼らは黙ったまま。私の意見に対しての反応も、答えも無し。
「この人達は自分達のした事を棚に上げ、私を邪魔者扱いしている」
『言わなければ伝わらない。伝わらなければ意味がない』故スティーブ・ジョブス氏の言葉です。
今から思えば両親は単にどうしていいかわからなかったんだと思いますが、それでも、私のことを無かったことのように振る舞い、その話を避けようとする、姿が許せませんでした。
酷い孤独感でした。
できないのなら、しないのなら、どうして、「サポートする」等と無責任な言葉を言ったのだろう。何故私が、実家に帰るのにビクビクしなければならないのだろう。
『消えたい。消えてしましたい』
もともとどこかで思っていたことが一気に噴火しました。
私は、泣きながら、実家にある、私が写っている子供の時からの写真やアルバムを全部破り捨てました。誰が一緒に写っていようと関係なく破り捨てました。
そしてそれを見た母の言葉は、、、
『どうして捨てるの?それは私の親が写ってる写真でしょっっ!!』

「この人は何もわかっていない。自分が無責任な発言をして私を追い込んだ事も、親としてのすべき事を放棄している事も。自分の事しか考えていない」
夕方になって気付くと両親は外出していました。私に何も言わずに。
そして私の『消えたい』感が沸点に達したのです。
1度めの自傷行為。
幸い私が何の用意もしていなかったのと、両親が帰って来てしまったので、大事には至りませんでした。
その後も、両親は変わる事なく私から逃げ続けていました。
仕事もうまくいかず、お金もなく、両親への不満も溜まる一方。完全に負のサイクルの中に入ってしまったのでした。そしてまた、栄養不良からか自家感作性皮膚炎にもかかり、3ヶ月に渡りステロイド投与治療をうけました。https://medicalnote.jp/diseases/自家感作性皮膚炎

環境を変える
仕事がうまくいかない中、両親への当て付けのつもりで軽い風俗関係でもアルバイトを始めていました。それを母に言うと、ショックは受けていた様ですが、しかし、だからといって、なにかをしてくれる事はありませんでした。
そんな時、弟が、
「後輩の不動産直営のマンションが地元の駅前に建ったから姉さん、そこに引っ越したら?一度、地元にかえってきたら?」
と、私に直接提案してくれたのです。
私は、引っ越して環境を変えたら少しはマシになるのかなと思い、その弟の優しさと気遣いに感謝し地元のマンションに引っ越しました。
引っ越し費用は一部私が払いましたが殆どは弟が出してくれました。
そのことについても、弟には感謝するものの、両親に対する怒りは溜まる一方でした。
そして、私は昔からの知り合いの個人会社で、アルバイトをすることになったのです。

負の連鎖は続いている
知り合いの会社で働き始めた私。最初は良かったのですが、私の後に入社して来た人が社長である私の知り合いに私についての不平不満を言い始めたのです。
かなり激しい人でした。いわゆる『ゴネ得』人種です。
偽善者のふりをして私を雇い、体の関係まで迫って来ておいて、私が何も文句を言わないのを良い事に、それとなく退職を促した、その社長。許せませんでした。私はそのまま退職し、もうどん底でした。(ちなみにその昔からの知り合いについてはいまでも無責任で、非常識極まりないというレッテルを貼っているので付き合いは遮断しました)
パニックというより、絶望感しかありませんでした。「大きな会社でも小さな会社でも、私は働けない。そして、働かざる者食うべからず」
消えたい方向に猛ダッシュでした。
2度めは首を吊りました。が、釣ったところがあまりにショボすぎて、私は体ごと床に打ち付けられ失敗に終わりました。
情けないだとか、苦しいだとかより、絶望感しかありませんでした。脳はカチカチになり、涙も止まりません。それから数日、そのまま、何もせず過ごしました。
精神障害2級
ある日私はふと思ったのです。国からの何かの支援はないのか?と。そして、見つけました。精神障害2級という制度を。
公的機関で私に資格があるかどうか調べ、主治医にお願いし、自分で書類を作成して、提出しました。すると2ヶ月後に認定されたのです。
母は言いました「一人でよく頑張ったわね」と。
私は思いました、「親ならそれくらいのこと早く調べて教えろよ!」と。
彼らは以前として、私の病気を調べようともしていませんでした。それは、今現在でも変わりません。
「これでやっと少し休養に徹することができる」久々の安堵の感情を覚えたのを今も詳細に記憶しております。
精神障害2級になってからの私については次回お伝えしていきたいと思います。負のサイクルの歯車が少しずつ狂っていくのか?次回も是非立ち寄ってくださいね。